北海道伊達市という地名をご存知でしょうか?
筆者の故郷になるのですが、地名を聞くと「あれ?福島に伊達ってなかったっけ?」とか「伊達政宗となんか関係あるの?」と聞かれる事も少なくありません。
そこで今回は、簡単に北海道伊達市の歴史をご紹介させていただきます。
北海道伊達市はどこ?
北海道伊達市と言われてもピンと来ない人も多いので、まずは場所から説明いたします。
北海道の中でも道南と呼ばれる南寄りに位置し、北海道独特の地方名で言うところの胆振地方にあたります。
伊達市は、明治3年(1870年)に仙台藩一門亘理領主伊達邦成とその家臣達の集団移住で開拓され、大正14年(1925年)8月に村から町へ、昭和47年(1972年)4月に町から市に移行しました。
平成18年(2006年)3月1日に大滝村と飛び地合併で新・伊達市が誕生したため、場所が二か所に分かれております。
沿岸部の方が昔からある伊達市の土地になります。
伊達邦成公とは
北海道伊達市の開拓を語るのに欠かせないのが「伊達邦成」です。
伊達邦成は、仙台藩一門・岩出山伊達家に生まれ、同じく一門の亘理伊達家に養子入りし、第15代当主になりました。
仙台藩は、あの有名な戦国武将「伊達政宗」が近世大名としては初代藩主となった藩です。
亘理伊達家は、伊達政宗の親戚にあたります。
関ヶ原の戦いのあと、徳川家康の許しを得て仙台に六十二万国の領地を有することになった仙台藩は、家来たちがいくつかのグループに分かれていました。
仙台藩の家来である亘理伊達家
伊達家の親戚は「一門」と呼ばれるもっとも高い位で、続いて早くに家来となった有力な家は「一家」「準一家」と続き、全部で十一の位に分けられていました。
伊達家の家来は一万人以上からなる非常に大きな組織でした。
伊達政宗の叔父で一門の石川昭光は、はじめは一万二千石を与えられました。
当時の大名の基準が一万石だったので、大名よりも大きな家来がいたという事になります。
亘理伊達家は亘理郡に約六千石をあたえられましたが、その後、二万四千石まで大きくなります。
戊辰戦争の敗北により北海道移住を決意
江戸時代末期、伊達邦成が亘理伊達家の十五代当主の頃に戊辰戦争が起こります。
この戦いで敗北し、石高は大幅に削られ、領地も一部他の藩のものとなりました。
さらに、仙台藩は旧幕府軍について戦っていたため、錦の御旗を掲げた新政府軍から朝敵とみなされておりました。
この逆賊の汚名を返上するために、新政府が当時頭を抱えていた蝦夷地開拓を自ら願い出て、北方警備をしようと考えました。
これは家老の常盤顕允からの提案でした。
戊辰戦争で深刻な資金不足となっていたため、移住の資金の工面の難しさから、伊達邦成ははじめは反対していたようです。
しかし、常盤顕允の必死の説得に応じ、移住を決意しました。
そして、新政府からの許しを得て、亘理伊達家の北海道の開拓事業がスタートしました。
この時、政府から「有珠郡の支配をおおせつける」という辞令がありました。
亘理伊達家は有珠郡についてはほとんど知りませんでした。
有珠郡の開拓
最初に伊達邦成は数人の家来と有珠郡に入り、江戸時代から続く有珠会所を訪れ、近くに住む倭人やアイヌの人々を有珠会所に招き入れ、この地について話を伺ったそうです。
826年慈覚大師自らが掘った阿弥陀如来像を安置したことを発祥とし、江戸時代の文化元年(1804年)徳川家斉によって蝦夷三官寺の一つに認定された歴史ある寺院である善行寺も訪れ、住職からもこの地について話に伺ったとされております。
当時の有珠郡にはいくつかのアイヌのコタン(集落のようなもの)があり、五百三十人ほどが住んでいたと言われております。
また、函館に江戸幕府や松前藩からアイヌとの交易を認められていた和賀屋という商人がいて、その配下の人たちが有珠会所で働いていました。
有珠郡には牧場もありましたが、すぐ近くにある有珠山が嘉永六年に噴火した時に、馬が犠牲になった影響でさびれてしまい、馬の数は少なかったようです。
有珠郡にいた人々とお話をする際、伊達邦成自らも参加し直接お話をされたそうです。
数々の贈り物をし、直接お話をしたのは、もともと有珠に住んでいた人々の協力が無くては移住や開拓が成功しないと考えていたためです。
そして、明治3年3月29日。
第一回移住団二百五十人は、名勝・松島の一つである寒風沢島から政府の蒸気船に乗り、室蘭へ出発しました。
有珠郡に到着した移住団は住む家がなかったため、会所やさまざまな小屋、アイヌの人々の家に分かれて寝泊まりさせてもらっていたそうです。
そして、さっそく移住団の人々が住む家づくりが始まったわけですが、その場所が有珠会所から十キロメートルほど離れた紋別川の東に広がる荒野でした。
そして、伊達邦成はこの紋別の地を移住の中心地と決めました。
これが今の伊達市になります。
健康で屈強な若者や大工たちが荒野に入って気を切り倒し、いばらを刈りでのぞいて家を建てるための土地を開いていきました。
そして、有珠会所に仮で置いてあった「開拓役所」を紋別の地に新しく開くことができました。
この時に、伊達邦成は移住者たちに次のような通知を出しております。
一、何事においても、真実を大切なことと心得て、礼儀廉恥(礼儀をわきまえて恥を知ること)の風をきびしく守ること。
引用:北の大地と生きる
一、アイヌの人びとをみだりにあざむき、いつわったり、あなどったりしないこと。
一、アイヌの人びとと品物を交換したり、勝手にはたらかせたりしてはいけない。万が一、馬でものを運ぶ仕事をたのみたい場合は、担当者に申し出て、指示を受けること。
一、アイヌの人びとの家に、みだりに出入りしてはならないこと。
このような通知があったこともあり、アイヌの人びととは仲良く暮らしていたと伝えられてます。
移住は明治14年4月まで合計9回行われ、約2,700人が移り住みました。
廃藩置県に伴う亘理伊達家解体
明治四年、新政府による廃藩置県に伴い、伊達邦成は有珠郡など支配していた領地を引き渡すよう命じられます。
莫大な費用や労力などの苦労をかけて開拓した土地を志半ばで引き渡さなければならないことに大きく腹を立てましたが、新政府の意向である以上仕方がありません。
開拓当初、北方の警備を担い逆賊の汚名返上しようと考えていましたが、伊達邦成が一般の役人になってしまったことで、武士としての面目も保つことはできなくなりました。
さらに、伊達邦成の家来だった者たちをすべて「平民」の身分にするという達しが来ました。
ここで事実上亘理伊達家は解体となってしまいます。
しかし、開拓をともにした者たちの結束は素晴らしく、その後も開拓を続け、さらには学校をつくり教育にも力を入れていきました。
外国から大規模な農業の手法も学び取り入れ、テンサイの栽培にも成功。
そして明治13年、官立の製糖工場が作られました。
大規模工場が作られたことによって人口が増えたと言われております。
亘理伊達家の家来たちの士族復帰
その後、明治十八年。
平民となってしまった亘理伊達家の家来たちの士族復帰を政府に願い出ます。
その願いは正式に聞き届けられ、念願の士族復帰を果たすことができました。
この時に、亘理伊達家の菩提寺である大雄寺で開拓の成功を誓い合った初心を忘れず、その志を明らかにするためにつくられたのが「士族契約書」です。
一、朝廷を尊びたてまつること
引用:北の大地と生きる
一、あるじである伊達家を永久にお守りすること
一、心を同じくして協力し、親睦を永遠にまっとうすること
一、節操を守り、義の心を重んじ、恥を知る心を養うこと
一、家業にはげんで、たくわえを増やし、質素倹約につとめること
一、子どもたちに教育を受けさせ、人材を育成すること
一、この契約にそむき、はなはだしく破廉恥なおこないのある者は除名すること
そして明治25年、伊達邦成は開拓の功により、勲四等瑞宝章を受勲、男爵に叙せられました。
その後、有珠郡は模範的な開拓農村であるとして、さまざまな地から人びとが移住してきます。
伊達村誕生
移住をはじめて三十年余りが経った頃、北海道では一級町村制という仕組みが始まり、有珠郡の東紋別村・西紋別村・稀府村・おこんしべ村・長流川・有珠村の六つを合わせて一つの村とし、一級村が誕生しました。
それが「伊達村」です。
名前の由来はもちろん亘理伊達家からで、村民たちの希望によりこの名前になったそうです。
開拓にあたっては、ここには書ききれないほどの苦労がありました。
始めのうちは作物の不作も多く、飢えと寒さに苦しむことも多かったようです。
資金が底をつき皆がひもじい思いをしていた時には、伊達邦成の母「貞操院」が自身の家宝や着物を売って資金の足しにしていたそうです。
貞操院は仙台藩主・伊達慶邦の妹であるお姫様で、幼少の頃からお城で何不自由なく暮らしてきたにも関わらず家来とともに移住を決意、移住後は泣き言一つ言わず野良着を着て周囲の者たちを励ましていたと言われております。
筆者の曽祖父も移住の際に渡ってきた開拓者になりますが、その暮らしは壮絶なものだったことが想像できます。
何もない土地で飢えや厳しい寒さに耐え、ご先祖様たちが開拓してくれた土地、これからも大切にしていきたいですね。
福島県伊達市とのつながりは?
冒頭にも述べたように、「伊達市出身です」と言うと必ずと言っていいほど「福島県」だと思われてしまいます。
筆者は必ず「北海道伊達市」と言うのですが、福島県にある伊達市とは無関係なのでしょうか?
実は、歴史を調べるとあっさりわかります。
結論から言うと、つながりはあります。
平安時代末期の1189(文治5)年、源頼朝の奥州攻めに従った常陸国の中村常陸入道念西(後の伊達氏初代朝宗)がその戦功により信夫郡・伊達郡を賜り、地頭に任ぜられ、この地方を支配することとなりました。
伊達氏は、鎌倉・室町時代を通じて伊達郡を拠点に奥州に勢力を広げ、1523(大永3)年に14代稙宗は陸奥国守護に任命され、奥州随一の勢力を築きました。
戦国時代の末期、豊臣秀吉による奥州仕置で伊達郡から伊達氏は離れることとなりました。
伊達氏は本拠地である伊達郡の領地を没収されてしまいますが、伊達郡という名前はそのままその地に残りました。
その後蒲生氏郷を経て、1598(慶長3)年からは、上杉景勝の支配下となりますが、徳川幕藩体制に入り明治に至るまでの約300年間は領主の交替が激しく、幕府の直轄地(天領)、大名領に分割統治されました。
1869(明治2)年、信夫・伊達・安達の三郡を併合して福島県が成立、その後の廃藩置県により福島(現福島市)に県庁が置かれ、現在の福島市、伊達市の発展の基礎となりました。
福島県の伊達市も北海道の伊達市も、長い歴史の中で伊達氏にゆかりがあるという面でつながっていたんですね。
北海道開拓の歴史に欠かせない伊達市についてまとめ
北海道伊達市について、簡単にまとめさせていただきました。
たまたま筆者の曽祖父が亘理伊達家の家来として北海道に移住したと聞き、色々調べて知ることができました。
まだまだお伝えできていない部分がありますので、別記事で少しずつご紹介していきたいと思います。
なお、北海道伊達市にある「北黄金(きたこがね)貝塚」は、2021年7月27日、国の特別史跡「三内丸山遺跡」(青森市)をはじめとした「北海道・北東北の縄文遺跡群」を世界文化遺産に登録された遺跡の一つです。
明治初期に開拓される随分と前から文明が発達していたようです。
最後に伊達邦成公のエピソードをもう一つご紹介。
1899(明治32)年に雑誌太陽(博文館)が、『明治十二傑』という臨時増刊号を出しています。
発刊の辞には「帝国近世の社会各方面における進歩の実相を描写するために」12の部門で読者投票を行ったとあり、政治では伊藤博文、教育では福澤諭吉、商業では渋沢栄一といった、教科書に登場するようなビッグな名前が並んでいます。
そして農業部門で選ばれたのは、伊達邦成でした。
有識者による選定ではなく読者投票で選ばれるほど、邦成らの挑戦と成功は入植30年弱ですでに広く知られ評価されてました。
とても素晴らしい功績を残された方だったんですね。
筆者が小学生の時、教室の黒板の上には伊達邦成公の写真が飾ってありました。
北海道でも非常に歴史深い場所、これからも大切にしていきたいですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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