政治思想における右とか左ってなんだ?そして保守とは?

前回の独り言「選挙に行かなかった私が政治に関心を持つまで」で、こんな風に締めくくらせていただきました。

“保守”について、少し変だなぁ?と思いました。
「今までの状態、考え方・習慣などを根本から変えようとはしない態度」が保守なら、本来であれば「憲法改正反対!」と主張をするのが”保守”ということになります。
ただ、周りの保守の方々を見ていると、「憲法改正しよう」と言っているのです。
では、”本当の意味での保守”って何?という話になりますが、それは次回のブログに書かせていただこうと思います。

という事で、私が学んだ”保守”についてご説明してまいりたいと思います。

その前に、政治思想って色々あって、全体を見てからご説明した方が良いと思うんですね。

あくまで私が学んできたものに基づいてご説明させていただきます。

政治における右と左

「右翼」とか「左翼」って言葉は知ってる人も多いとは思います。

もとになっているのは、フランス革命後の議会になります。

フランス革命後の右左

フランス革命がなぜ起きたかなどもご説明した方がいいのだと思いますが、そこを書き出すとそれだけで膨大な量になるので割愛させていただきますね。

ブルボン朝をの絶対王政打倒を目指す市民革命によって成立した国民議会は、大きく二つの意見が対立しあう形となりました。

  1. ブルボン朝の王政を支持し、伝統を重んじる保守派(旧体制の維持を望む勢力)
  2. ブルボン朝の王政打倒を求める共和派(旧体制の打破を望む勢力)

そして、王妃マリー・アントワネットが外国の軍隊を招き入れて市民の弾圧を図ったことが明らかになりました。

世論は激昂し、武装した市民が応急を襲撃して国王と王妃を逮捕しました。

多くの貴族が殺されたり財産を没収されたりする中で、共和派だけの議会が開かれ王権停止を決議してしまいます。

そして、フランス共和国となりますが、今度は共和派が分裂することになります。

  1. ルイ16世の処刑と富裕層からの財産没収を要求するジャコバン派
  2. 個人の財産を守り、革命終結を求めるジロンド派

議長席から見てジャコバン派が左側、ジロンド派が右側に着席していたことから前者を「左派」、後者を「右派」と呼ぶようになりました。

この時の「右派」は、共同体(社会や家族)の伝統や秩序を重んじ、急激な変化を求めない「保守主義」とも呼べます。

それに対して「左派」は、共同体よりも個人を尊重する考え方なので、個人の権利と自由を制限するような伝統は根本的につくり変えることを望む「リベラル(自由主義者)」とも呼べます。

ここが政治における「右」、「左」という表現のはじまりとも呼ばれております。

ちなみに、イギリス革命とフランス革命はどちらも国王を倒した「市民革命」として同じように扱われておりますが、イギリス革命が「古来の秩序」への回帰を目指した「保守革命」だったのに対し、フランス革命は「こうあるべき未来社会」を設定し旧来の社会秩序を徹底的に破壊した「リベラル革命」なので、方向性は真逆になります。

明治維新と戦前の日本

日本で起きた大きな革命的出来事として、「明治維新」が挙げられます。

社会が危機的状況に陥った時、未来に理想を掲げて伝統を破壊しようとする「改革」と、遠い過去に理想を見出してそこへ戻ろうとする「復古」という動きが起こります。

明治維新は、「尊王攘夷」という「復古運動」に始まり、近代欧米文明を導入する「文明開化」という「改革」となりました。

初代内閣総理大臣である伊藤博文の懐刀として重要な法典である「大日本帝国憲法」、「皇室典範」、「教育勅語」、「軍人勅諭の制定」などに深く関与した法務官僚である井上毅(いのうえこわし)という方がおります。

「日本国有の歴史法学とは何か?」と考え続けた井上は、「古事記」に示された建国の理念、「憲法十七条」、「御成敗式目」など日本固有の法典にその根拠を求めました。

その古典や歴史の教養が、古典の教養にかけていると自覚していた伊藤博文をブレーンとして支える源となりました。

「古事記」の神話が伝える日本の伝統的国家体制(国体)と、フランス革命以後に西洋諸国が採用した立憲君主政体を見事に融合させたのが「大日本帝国憲法」です。

明治維新後に政権を担った「元老」と呼ばれる維新の功労者たちである伊藤博文、山県有朋、桂太郎、西園寺公望などは徳川幕府を倒した「改革」の推進者であり、明治に入ってからは帝国憲法体制を護持する「保守派」となりました。

この帝国憲法を守ろうとする人たちを「保守」とすると、この保守を破壊しようとする立場には二つのグループがありました。

  1. 「古事記」などの神話世界を理想化し、天皇を「現人神」として絶対視する「復古」のグループ
  2. ルソーの人民主権論や、マルクスの階級闘争理論を日本にあてはめる「改革」のグループ

復古グループについて

1の復古のグループは、人間が作った憲法で神権を制限するなどもってのほか!という主張で、国学者や神道家、さらには軍人教育を通じて軍の内部に浸透していきました。

この主張は、主に大日本帝国憲法の第3条「天皇は神聖にして侵すべからず」の部分について問題視しております。

「天地開闢より、天皇の神聖なる地位は定まっている。思うに天皇は天より神のまま、至聖にして臣民の前にあり、干犯してはならない。ゆえに君主は法律を軽視できないが、法律は君主を問責する力を持たない。不敬により君主の身体を傷つけてはならないだけでなく、議論の対象にもならない」

帝国憲法義解 第3条

判子を押すのは天皇だけど、政治責任は文書を作った国務大臣が負うという国見大臣の補弼責任(第55条)とセットになっておりました。

しかし、神聖な天皇は超法規的なものでもあるにも関わらず、このように憲法の条文のような所で規定されているのはいかがなものだろうか?という主張のもと、帝国憲法を破壊しようという動きがありました。

改革のグループについて

それぞれルソーの人民主権論とマルクスの階級闘争理論について簡単にご説明します。

ルソーの人民主権論

ルソーの人民主権論は、ホッブズの社会契約説とジョン・ロックの革命権がもとになってます。

簡単に説明すると、「バラバラな個人が戦争回避のために契約を結んで主権者を選出する」というような考え方が社会契約説になります。

親から捨てられた辛い経験を持つルソーは、階級制度と富の偏在に激しい憎悪を抱きながら成長し、独特な思想を持つようになります。

「公正な共同体(=国家のこと)を形成するためには、各人はすべての所有権を国家に委託し、私有財産を認めてはならない。王も代議制も認めるべきでなく、主権は全人民が握る。全人民の一般意志が、国家の意志である。個人の特殊意志は一般意志に従属する」

社会契約論

ルソーが思い描く理想の国家は、土地も産業も国有化され、国家の意志に個人の意志が従属する全体主義国家への道につながるとハンナ・アーレント(20世紀にナチズムが台頭したドイツからアメリカに亡命し、全体主義を生み出す大衆社会の分析を行った哲学者)が指摘しました。

スターリンや毛沢東、ポル・ポトへの道です。(知らない方は是非調べて欲しいです。)

マルクスの階級闘争理論

マルクスの階級闘争は、資本主義社会における階級間の対立・抗争は資本家による労働者の搾取(剰余価値の収取)に由来するものであり、生産手段の私有が社会の基礎となっている階級社会において、階級と階級とのあいだで発生する社会的格差を克服するために行われる闘争のことを言います。

この闘争が原因で、革命が起きるという理論が階級闘争理論です。

この「階級闘争」は、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(1848年)で「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と規定され、階級闘争は社会発展の原動力として位置づけられています。

ソ連に代表される共産主義国家は、貴族、資本家、クラークなどを敵対階級として強制収容所に送ったり、強制労働に動員したほか、裁判なしで殺害する、彼らの子孫まで人権を認めないなどの迫害を加えたという事実があります。

また、現在では中国が共産主義国家と言えます。

中国共産党については人権弾圧等が問題視されております。

ルソーとマルクスの共通点

改革グループの考え方の元になっている2つについて簡単にご説明させていただきました。

これら2つの思想は、全体主義とも呼べる思想です。

全体主義(ぜんたいしゅぎ、イタリア語: totalitarismo、英語: totalitarianism)とは、個人の自由を認めず、個人の生活や思想は、国家全体の利害と一致するよう統制されなければならないとする思想または政治体制である。通常この体制を採用する国家は、特定の個人や党派または階級によって支配され、その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるように努める。

出典:Wikipedia

そして、この2つの思想の最も重要なところは、最終的に人を虐殺するところに行きついてるということです。

これらの思想を持った「改革」のグループもまた、帝国憲法を破壊しようと動いておりました。

そして、「復古」と「改革」のグループから帝国憲法を守ろうとしたのが、この時代の「保守派」と言えます。

戦後の日本の保守

日本の保守的な位置づけの政党と言えば、自民党を思い浮かべる人も多いと思います。

しかし、現代は様々な社会課題が議論されており、〇〇さんは保守とか、〇〇党は保守などと一概には言えないケースが多いです。

例えば、憲法を改正しようと言っているのが保守派の考えだとします。

そして、同じ人が女系天皇を認めると言ったらどうでしょう?

基本的に男系による皇位継承を推進しているのが保守派ですので、それぞれの議論によって違う意見を述べているという事になります。

女性天皇と女系天皇の違いについて以前noteに書きましたので、参考までに載せておきますね。

様々な議論がされておりますので、現代では「この議論については保守的な意見」などという表現が良いのではないかと思うんですね。

そもそも保守というのは、伝統や文化を大切にしようという思想ではありますが、「全く変えない」というわけではありません。

時代に沿って少しずつ「変えるところは変える」という思想なので、議論によって異なる意見を持つというのは、むしろ「従来の姿」とも言えるのではないでしょうか。

1955年11月15日、自民党(自由民主党)が発足されました。

発足時のことについて、自民党のホームページにはこのように書かれております。

わが国の戦後民主政治は、昭和二十年八月十五日の太平洋戦争の終結と、連合軍による占領政治の開始とともに、その幕をあけました。

しかし、それから「保守合同」による自由民主党の結党までの十年間は、終戦後の社会的・経済的混乱、急激な民主的改革、占領政策の変化等によって、文字どおり激動と混乱を続け、平和条約締結後も占領政治の後遺症からぬけだすことに精一杯で、いわば戦後民主政治確立への、生みの苦しみを続けた「準備期」であったといえましょう。

終戦直後の八月、鳩山一郎氏を中心とする「日本自由党」の結成を皮切りに、「日本社会党」「日本進歩党」「日本協同党」「日本共産党」などの各政党が旗揚げし、それぞれ多彩な政策、綱領を掲げて出発したのでした。

だが、その後、連合国軍総司令部の指令による公職追放や政治介入が進むにつれて、戦後政治はめまぐるしく揺れ動いたばかりでなく、選挙による各党の消長とともに、政界分布図もまた、激しく流動を続けました。

自由民主主義政党の各派についてみると、まず「日本協同党」が二十一年五月、他の少数党と合同して「協同民主党」となり、さらに翌二十二年三月には、国民党といっしょになって「国民協同党」を結成しました。また「日本進歩党」は、二十二年三月には「日本民主党」となり、のちに「国民協同党」と合同して「国民民主党」に変わり、独立回復直前の二十七年二月には、解党して「改進党」を結成し、二十九年十一月に「日本民主党」に発展したのです。

引用:自民党

戦後の激動の中で始まった自民党ですが、皆さんもご存知の通り大きな組織という事もあり派閥が存在しております。

結構複雑であったり、派閥もたくさんあるので覚えるのは難しいかと思います。

そして、大事なのはなぜ派閥があるか?ってことです。

例えば、自民党が”保守政党”なのだとしたら、”保守”という位置づけで全ての意見が合致しているかというと、そうではないのです。

それは、前述のように、”議論する内容”が多岐に渡るようになったことで、どの議論に置いて”保守”的な考えを持っているのか、または持っていないのかというのが分かれるからです。

論点がたくさんあるので、細かい論点についてはまた別記事でご紹介させていただきますね。

*ご案内
この記事は主に茂木誠先生の“世界史講師が語る 教科書が教えてくれない「保守」って何?”と“ニュースの「疑問」が、ひと目でわかる座標軸 世界の今を読み解く「政治思想マトリックス」”を参考にさせていただいて記事を書いております。初心者でもわかりやすく書かれた素晴らしい本なので、是非一度ご覧になって下さい。下記のバナーから購入できます。