パラオ共和国は日本から直行便を利用すれば4時間半で行くことができる国です。
200以上の自然豊かな島でできた、人口約2万人の小さな国で、人が住んでいるのはその中でも9つの島だけです。
この記事ではパラオの戦跡や慰霊巡りの旅の記録として、行き方や戦跡のご紹介をしたいと思います。
パラオへの行き方
以前まではデルタ航空が直行便を運航していたのですが、現在は運休となっています。
直行便が希望であれば、日本航空(JAL)が成田空港からパラオを繋いでいます。
直行便であれば約4時間半で到着し、日本との時差はありません。
他にも、グアムや韓国のインチョン、台湾の台北を経由して渡航することも可能です。
その場合の所要時間は7時間〜10時間です。
パラオにある唯一の国際空港は、バベルダオブ島にあります。
おすすめの観光方法
パラオではどこでもタクシーがつかまるほど交通の便が良くありません。
空港からはホテルの送迎バスを利用することが一般的です。
自分のペースで島をまわりたい!という方は、空港に降りたらまずレンタカーをかりることをおすすめします。
ツアーに参加するのがおすすめ!
戦跡や慰霊碑などをまわりたい場合は、ツアーに参加するのがおすすめです。
島ごとにある観光スポットに連れていってくれます。
ネットで見つかるような有名スポットへはツアーで行けるはずです。
戦跡や慰霊の紹介
それでは、訪れた戦跡や慰霊についてエリア別にまとめて紹介します。
バベルダオブ島
ガツパン州通信塔
ガスパン州では、完全に根元から折れて倒れ、放置された通信塔を見ることができます。
その付近には、おそらく通信所であったと思われる「通信所跡」も見つかりました。
これは日本統治時代の鉄塔です。
戦争時代には野戦病院として使われたというお話を聞きました。
鉄塔は日本人自らが倒したものだと伺っております。
どうしてだかわかりますか?
戦時中、もうダメだと思った時に、大事な情報が漏れないようにするために先に自分たちで倒したとのことです。
真実のほどはわかりませんが、聞いていて胸が痛くなりました。
兵站(へいたん)病院跡
兵站とは補給、輸送、管理の3要素からなり、兵站能力とは自給自足型・現地調達型・補給基地型の3つにわかれます。
兵站病院とは、病院と呼ぶにも乏しいような掘っ立て小屋に、患者は何もされずに寝かされるだけの病院だったと経験者は語ります。
バベルダオブ島に位置しています。
アリモノグイ州パイナップル工場跡
バベルダオブ島に位置するアリモノグイ州(アルモノグイ州)には、日本統治時代に日本人がパイナップルを集めてパイン缶を作っていました。
当時は「朝日村」と呼ばれる日本人村があり、島内産のパイナップルを主に沖縄出身の若い女工さんがパイナップル工場で働いていたそうです。
ゼロ戦
アルモノグイ州の幹線道路から入り、見晴らしの良い丘の斜面には、「日本軍機の残骸」が残されています。
これらは各部の特徴から 「零式艦上戦闘機五二型(零戦52型)」であることがほとんど断定されています。
車を止められるところから、砂利道を40分ほど歩くと見ることができます。
安式四十口径十五糎速射砲
バベルダオブ島西側にある海が見渡せる高台には、「安式四十口径十五糎速射砲(アームストロング式40口径15cm速射砲)」4門(「海軍砲台」)が遺されています。
アルコロン州灯台
バベルダオブ島最北端に位置する、日本統治時代に建てられた灯台です。
看板の先にある民家で手招きをされるので、そこで入場料を払います。
ガラツマオの港で夕日
ボーキサイト積出し施設跡など、海沿いには日本統治時代の建物が残っています。
ツアーでも人気なガラツマオの滝も近いので、あわせて観光してみてはいかがでしょうか?
コロール島
サクラ会墓地
パラオ共和国のコロール島には、パラオ共和国の中心都市であるコロール市があります。
サクラ会墓地には多くの慰霊碑が建てられています。
例えば、白蝶貝採取業殉職者慰霊碑は第二次世界大戦の前から日本人がこの地で活躍していたことを証明しているような気がします。
白蝶貝は以前、男性の高級ワイシャツのボタンなどに利用されていたものです。
ペリリュー島
爆撃機彗星のエンジン残骸
「彗星」は大日本帝国時代の艦上爆撃機です。
かつて日本の軍用機には空冷エンジンが採用されることがメジャーでしたが、彗星には高性能であり大量生産が難しい水冷エンジンが使われました。
しかし、戦争末期には従来通り空冷エンジンに切り替わったため、故障が多かったと言います。
戦争博物館
武器、道具、写真などが展示されています。洞窟内の散乱したガラス瓶など、当時の生活がなまなましくわかります。
この戦争博物館が存在するペリリュー島では、日本軍が飛行場を建設したことが理由で戦争に巻き込まれることになりました。
今でもパラオはその戦争に関する資料館を運営しているわけですが、保存状態や展示状態は良いとは言えません。
日本はこのような場所に出資するべきなのではないでしょうか。
日本軍司令部
日本軍は第二次世界大戦で劣勢に立ちながら、圧倒的な勢力を持つ米軍に各地で玉砕していきます。
日本軍は水や食料も尽き、辺りは両軍兵の死体により血で染められていきました。 そして司令を送っていた中川州男(くにお)陸軍大佐は「サクラ、サクラ」と電文を打って玉砕したのです。
大山(鎮魂の碑)
標高98メートル地点にある島の最高峰、大山にある連隊本部に中川大佐は陣取っていました。
しかし、大山陣地にこもる兵力は120人にまで激減し、最後のときがきたのです。
昭和19年11月24日の午後4時に、「サクラ、サクラ」を打電し、連絡が途絶え、その夜に中川大佐は自決をしました。
日本軍軽戦車
米軍の「M4中戦車(シャーマン)」を相手に突撃したものの、次々と撃破されました。
日本軍歩兵は米軍部隊に刀剣など近接戦闘用の武器を用いた戦いである「白兵戦」を仕掛けます。
しかし、結果として作戦は失敗に終わり、日本軍軽戦車は全て打たれ、歩兵のほとんどが戦死するのです。
日本軍大砲
日本軍20ミリ砲台を見ることができます。ここで見ることができる大砲は米軍が向かってくる方角とは反対の東向きに設置されていたため、一発も打つことはありませんでした。
千人洞窟
文字通り千人ほどを収容することができる規模の洞窟で、内部には小部屋が多数あります。
水戸山と呼ばれる岩山をくり抜いて作られました。
もともとは防空壕として造られたと言われていますが、それが次第に拡大していったそうです。
穴の入口から中に向かって、米軍は火炎放射器で攻撃をしたそうです。
とても残酷ですね。
ペリリュー神社
ペリリュー神社には日本兵の慰霊が設立されています。
その設立には現地の人たちの協力があったことは明らかです。
日本軍は圧倒的に不利な状況下で、現地民を避難させたと言います。
そして現地の人は、日本軍と一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ペリリュー島を指差しながら、「あそこでみんな死んでいったんだ」と話すそうです。
中山大佐の自決の壕
戦いに敗れ中川大佐が自決した場所が存在します。
中川大佐の指揮下であった守備隊は洞窟陣地を拠点とする持久戦をすることになります。
その働きから昭和天皇に嘉賞11度、感状3度が与えられました。
ペリリュー神社のすぐ近くにあり、たくさんの数珠などがお供えされてます。
宇都宮通信部跡
日本大帝国陸軍である第14師団は、師団司令部は宇都宮に置かれました。
日露戦争では全ての師団を動員したことにより、本土駐留師団がなくなってしまったため、第14師団を含む4個の師団が設立されました。
日本人なら知っておきたい場所!パラオの戦跡と行き方まとめ
いかがでしたでしょうか?
日本人なら知っておきたい場所、パラオについて、行き方や戦跡についてまとめさせていただきました。
先の大戦について、75年経った今でもこのような形で残っているのは非常に貴重です。
是非一度足を運んで見ることをオススメします。